東京高等裁判所 昭和51年(う)1126号 判決 1979年3月20日
主文
本件各控訴を棄却する。
当審における訴訟費用は、全部被告人両名の連帯負担とする。
理由
<前略>
一弁護人の控訴趣意書第一点ないし第三点、被告人の控訴趣意書並びに弁護人伊達秋雄外二名連名及び弁護人佐藤博史の各控訴趣意補充書について。
(一) 書籍は刊行され頒布販売されてはじめて広く利用可能の状態におかれるものである。刑法一七五条はわいせつ文書の頒布販売を禁止しているが、わいせつの概念が明確でないときには本来合憲的には規制しえない表現の公表が処罰されたり処罰を警戒するあまりその公表がはばかられたりする余地が現実にかつ実質的に存在するおそれなしとしない。
当裁判所は、右にいうわいせつ文書の意義自体について基本的には「チヤタレイ」事件の昭和三二年三月一三日大法廷判決(刑集一一巻第三号九九七頁)及び「悪徳の栄え(続)」事件の同四四年一〇月一五日大法廷判決(刑集二三巻一〇号一二三九頁)の示しているところに則るものであり、これら判例の示すところによれば、わいせつの概念自体が憲法三一条に反する曖昧、不明確なものであるとは認められない。しかし、そのうえで、わいせつ性の有無の判断を一層客観的なものとし、前述した構成要件概念明確化の目的に資するためには、右の判断の方法並びに基準がより具体化されていることが望ましいと考えられるから、以下に当裁判所の考えるところを示すこととするが、ここでは文字による記述のみからなる文書に限り説くこととする。
(二) 文書がわいせつと評価されるだめには、先ず性器または性的行為の露骨かつ詳細な具体的描写叙述があり、その描写叙述が情緒、感覚あるいは官能にうつたえる手法でなされているという二つの外的事実の存在することが最少限度必要である。
右にいう具体的描写叙述があつても冷静かつ客観的手法でなされている医学書の如きものや、情緒、感覚あるいは官能にうつたえる手法で書かれてはいるが性器または性的行為の描写叙述がいまだ露骨詳細具体的ではないいわゆる艶笑小説あるいは官能小説のたぐいは、わいせつ文書に当る外的事実の存在を欠くものである。
刑法一七五条のわいせつ文書に当るためには、右の二つの外的事実のみでは足りず、その文書自体の客観的内容を全体としてみたときにその効果が専らもしくは主として読者の好色心をそそることにあり、言いかえればその支配的効果が好色的興味にうつたえるものと評価され、かつその時代の社会通念上普通人の性欲を著しく刺戟興奮させ性的羞恥心を害するいやらしいものと評価されるものであることを要する。そして、前記の外的条件をみたす文書であつても、これを客観的にみたときに、その支配的効果がむしろ性についての真摯な思想表明にあつて好色的興味にうつたえるものではないと評価されるようなものはわいせつ文書に当らないし、また、右外的条件をみたす文書でその支配的効果が好色的興味にうつたえるものであつても、右の外的事実に当る部分がごく一部にすぎない場合のように、全体としてはいまだ普通人の性欲を刺戟興奮させ性的羞恥心を害するいやらしいものと評価するに足りない場合も稀にはありえよう。
そして、右の基準に則して文書のわいせつ性を判断するに当つては右の外的事実に当る描写叙述部分のみを全体からきりはなして評価する方法によつてはならないし、また、性的羞恥心を害するいやらしいものに当るかどうかの判断においては閲読の場や周囲に対する気兼ねというような付加的事情を考慮に入れるのは相当でない。もとより、その文書の表明する思想や主題が性に関する道徳や風俗あるいは性秩序を攻撃するもので、それがあるいは反道徳的、非教育的と非難されるものであつたとしても、これをわいせつ性の判断に当り考慮に入れることは許されない。
更に、右にいう支配的効果を判断するに当つては、(イ)前記の二つの外的事実に当る描写叙述が、その文書の全部または大部分を占るかあるいはその一部に含まれているにすぎないか、(ロ)右の外的事実に当る性表現が、その文書に含まれている思想などを伝えるうえで必然性もしくは合理的関連性を有するかどうか、(ハ)当該性表現の読者に与える性的刺戟ないし印象が、文書全体の構成や展開の仕方などとの関連で減少、緩和されているかどうか、(ニ)その文書の内容に芸術的、思想的、学問的等の重大な社会的価値が認められるものである場合には、その芸術性、思想性などにより当該性表現の性的刺戟ないし印象が昇華、克服されているかどうかなどの諸点が総合考慮されなければならない。なお、いわゆる性風俗上の資料としての意義は、右の支配的効果を判断するうえで特段の役割をはたすものではない。
以上述べたところによつてみれば、当審取調べの伊藤整訳「チヤタレイ夫人の恋人」(小山書店)や澁澤龍彦訳「悪徳の栄え(続)」(現代思潮社)などの文書が現時点においてなおわいせつと断定されるかどうかについては多大の疑問がある。そして、前記の判断基準によれば、刑法一七五条のわいせつ性を有するとされる一方芸術、思想、学問などの著しい社会的価値を備えるとされる文書の存在する余地は著しく減縮されることとなり、その結果として刑法一七五条のわいせつ文書に当るとされるものは、多くの場合みるべき社会的価値をもたないもののみとなる筋合である。
(三) 右にいう二つの外的事実に当る描写叙述に終始するものあるいはその余の描写叙述がいわば枝葉にすぎないものであつて、その文書の支配的効果が専ら読者の好色的興味にうつたえ、普通人の性欲を著しく刺戟興奮させ性的羞恥心を害するいやらしいものがいわゆる春本である。そして、春本は精神的自由として憲法の価値体系上高位の価値を認められている思想、信条、信教、学問などの表明とは明らかに無関係のものであるから、事前の検閲に服さないという限りで憲法上の保障をうけるとしても憲法二一条一項の表現の自由の保障をうけるものではなく、その頒布販売を処罰の対象とするか解禁放任して自然淘汰に委ねるかは立法政策の問題であるにとどまる。
しかし、春本と異り、前記二つの外的事実固当る描写叙述がその相当部分に含まれている文書であつても、全体としてみたときに専ら好色的興味にうつたえるたぐいのものではなく、何らかの観念、思想などの表明がなされている客観的に読みとれるものは憲法二一条一項の表現の自由の保障をうける余地のあるものであるから、その文書の支配的効果が主として好色的興味にうつたえるものであるかどうかの判断はとりわけ慎重になされなくてはならない。しかし、そのうえで刑法一七五条のわいせつ文書に当るとされるものの社会的意義は、実質上春本と大差がないことになるから、憲法二一条一項の本来の保障をうけるものに比しその憲法的価値において著しく低いものである。従つて、この種のわいせつ文書の頒布販売をも処罰する刑法一七五条の合憲性判断の基準としては、所論の主張するいわゆる明白かつ現在の危険テストではなく、いわゆる合理的関連性テストで足りると解される。
いうまでもなく、自由主義的憲法原理の基礎は、すべての国民が個人として尊重され、生命、自由及び幸福追求の権利について最大の尊重をうけるということにある。わいせつ文書の公表が、右の憲法的価値の実現に資するゆえに善良なものと観念される性の道徳、風俗あるいは秩序に対して長期的にみて何らかの有害な影響を及ぼす蓋然性があるという事実命題並びに日常生活の質の向上、社会の品格の維持、わいせつ物の未成年者からの隔離などの国民的利益に対しても長期的にみて何らかの有害な影響を及ぼす蓋然性があるという事実命題は、我が国を含む自由主義的憲法原理を探る諸国家において識者の間にかなり広く信じられている。そしてこれらの命題については、未だ利用に値する実証的長期的な観察調査結果は見当らず、右の命題は、実証されていないがさりとて否定もされてはいないものの、不合理なものとはいまだ認められない。従つて、現時点ではこれらのかなり広く信じられている命題と刑法一七五条の規定とが合理的関連性を有しないものと断ずるわけにはいかず、それゆえ刑法、一七五条は憲法二一条に反するとはいえないものであり、この種文書の入手を欲する成人に頒布販売することを刑法一七五条により規制しても、これまた憲法二一条に反するものではない。
(四) 飜つて、本件「四畳半襖の下張」をみてみると、右文書は雑誌「面白半分」昭和四七年七月号の二八頁から三六頁までにわたり掲載された短篇小説であり、その三〇頁五行目「女は」の部分から三五頁一五行目までに、種々体位を変えながら性交を続けていく有様や性交に関連した性戯の情景が、その姿態、性器の模様、行為者の会話、音声、感情、感覚の表現等をまじえながら露骨、詳細かつ具体的に描写叙述されており、その描写叙述が情緒的感覚的表現方法をとつている点で、前記の外的事実の存在という条件を充たしているものである。そして、右の叙述部分は量的には全文のほぼ三分の二に当るが、その余の部分を含む全篇の構成をみると、同二八頁本文冒頭から二九頁二〇行目にわたつては、怪文書の由来並びに主人公生来の好色の述懐の叙述部分があり、次いで右に述べた閨房の描写叙述を含む部分があつて、更に、三五頁一六行目から末尾までは主人公の浮気癖を弁じ漁色遊蕩ぶりを物語るというものである。その全篇を通して男性観、女性観あるいは男女間の生理の差などについての或種の観念ないし感想の表明がなされていると客観的に読みとれないわけのものではないが、前記の閨房痴戯の叙述部分が量的にも質的にも作品の中枢をなしており、その全体の構成や展開の仕方を考え、戯作の手法、エロチツク・リアリズムとしての文芸的価値を指摘する見解を考慮に入れても、その作品は客観的にみて、全体の支配的効果が好色的興味に主としてうつたえるものであつてかつ当代の社会通念上普通人の性欲を著しく刺戟興奮させ性的羞恥心を害するいやらしいものであると評価されるから、これを刑法一七五条のわいせつ文書に当るとした原判断の結論は正当として肯認することができる。
(五) 所論は、刑法一七五条は憲法上制限しえない表現の公表をも処罰しうるが如く立法されており、その文言が広汎に失しかつわいせつの概念が抽象的で不明確であるから、憲法三一条に反すると主張しているが、前述したわいせつ性判断の方法基準によれば、わいせつの意義は合憲的に制限しえない表現の公表を処罰する余地を現実的かつ実質的にとどめない程度にまで可能な限り限定されているものといえる。従つて、この判断の方法基準に則りわいせつ文書を販売したとされる本件被告人両名に対しては刑法一七五条は不明確な刑罰法規ではないのであり、本件被告人らは第三者の憲法上の権利を援用して右一七五条の違憲性を争う適格を欠くものである。
(六) 所論中には、一般人にとつて可変性に富み捕捉が困難な社会通念をもつてわいせつ性判断の基準とすることは裁判所の主観によつて法が変動することを意味し、刑法一七五条を憲法三一条に反し不明確ならしめる旨の主張もあるが、前述した社会通念とは、前記昭和三二年三月一三日大法廷判決のいう「一般社会において行われる良識」、「個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識」を意味するのであり、これを平明にいえば、智的にも情的にもかたくなでなく、人間の態度、考え方などが多種多様であることをも容認している人々のもつ集団意識をいうものである。右はその性質上主観を超え客観的なものにより近いものであり、またその変遷もそれほど急激なものではありえないから、裁判官によると同様一般人によつても捕捉が可能なものである。してみると、裁判所の主観により法が変動するのではなく、社会通念の変遷により法の適用の範囲が変動するにすぎない。そこで、社会通念をもつて構成要件該当性判断の一基準とすることは刑法一七五条を憲法三一条に反する不明確なものたらしめるものではない。
(七) 以上述べたように、刑法一七五条は憲法二一条及び同三一条に反しないものであり、原判決の理由づけには必ずしも十分でない点もあるが、その結論はいずれも正当であり、また、十分文書が刑法一七五条のわいせつ文書に当るとした原判断の結論も正当として肯認しうるから、控訴趣意第一点ないし第三点の論旨は結局いずれも理由がないことに帰する。
二弁護人の控訴趣意第四点について。
憲法八二条二項但書の規定は、対審の公開を定めているにとどまるものであつて、有罪判決の理由として示すべき事実の範囲を規制するものではない。右の罪となるべき事実としては、当該犯罪の構成要件に該当する具体的事実を、事件の同一性及び法令適用の根拠を確認しうる程度に表示すれば足りるものであつて、原判示はこの点においてなんら欠けるところはなく、判決に理由を付さなかつた違法があるとは到底認められない。
所論はまた、原判決には本件文書のわいせつ性を認定した証拠の掲記を欠くとし、認定事実と証拠の標目との間にくいちがいがあるとも主張しているが、わいせつ性の有無の判断は裁判所が文書自体について行なう法律的評価であるから、その評価の対象たる事実を示す証拠の標目としては、当該文書を特定して掲記すれば足り、認定事実と証拠の標目との間にくいちがいがあるとは認められない。
従つて、所論はいずれも理由がない。
三弁護人の控訴趣意第五点について。
わが国の教育の普及程度についての公知の事実に則して検討してみると、「わが国の教育の普及程度等に照らし、これを読解することの可能な者が無視できない程度に多数存在することは肯認されるところである」旨の原判示部分に事実誤認のかどはない。
所論中には、「公然性が否定されるほど読解可能者の数が少なく特定しているとは考えられない」との原判示部分につき理由齟齬の違法があると論難する部分があるが、原判決を通読すれば、所論指摘の「公然性」に関する原判示部分は本件文書の販売が特定小数人に対する販売には当らない旨を判示しているにすぎないものと解せられ、該文書のわいせつ性判断の素材として掲載者の意図や読者層に言及しているものとは解せられないから、所論の主張は前提を欠くものである。
更に、所論中には本件文書をわいせつ文書に当るとした原判断に事実誤認があるという部分もあるが、その理由のないことは既に判示したとおりである。
従つて、所論はいずれも理由がない。
四弁護人の控訴趣意第六点及び弁護人伊達秋雄の控訴趣意補充書中一、について。
性表現文書の内容上の思想性、芸術性ないし文芸的価値のごとき社会的有用性の要素は、そもそも当該文書の刑法一七五条の構成要件該当性判断の場において消極に機能する要素として考慮に入れられるものであることは前叙説示のとおりである。してみれば、上述したわいせつ性の判断の方法基準に従い、右の要素を考慮に入れてもなお現時点において刑法一七五条のわいせつ文書に当る本件作品について、これを多数人が店頭で自由に購入しうる商業大衆娯楽雑誌「面白半分」に掲載し約三万部を公刊して販売した本件所為は、そももその手段方法の点でみても相当であるということはできない。従つて、原判決の判断過程に所論指摘の問題はあるものの、本件所為を正当行為に該当しないとした結論は相当であるから、この点の論旨も結局理由がない。
五弁護人の控訴趣意第七点及び弁護人伊達秋雄の右補充書中二、について。
記録及び原審取調べの証拠によれば、本件「面白半分」に「四畳半襖の下張」を掲載したことについては、被告人両名においても同誌の読者がその意味内容を閲読できるものと認識したうえでのことであると認められるし、また、該作品が男女の情交を詳しく描写した筋書のもので、露骨詳細かつ具体的な性器または性的行為の描写叙述が含まれ、その描写叙述が情緒的、感覚的方法でなされていることを被告人両名において認識していたものと認められる。
被告人佐藤の検察官に対する供述調書中には、「刑法の建前は、文書の場合格調が低く、もつぱら性的な刺激を与えることを目的としたものを猥せつだとしているのだと思つてきました」、本件作品は、「奇麗な擬古文で書いてあつて現代に生きる我々は、猥せつの感じをもち得ないものであるし、擬古文であるためこの文章を読む若い人達は外国語を読んでいるように感じ、到底猥せつ感というようなものはもよおさないと考えられました」、被告人野坂の検察官に対する供述調書中には、右作品は、「文化的価値の高いすなわち秀れた芸術的作品であるということが私の頭を支配し、猥せつ本あるいは春本、エロ本ということで警察の摘発を受けるのではないかと本当に意識に出ませんでした」、「戯文体の文章でそれも巧みな表現をとつていて、その文学的な価値に感嘆し、いうなれば性的な劣情をもよおさないし、羞恥心ももよおさないしいわんや今の若い人達がこの文章を読んでも読みきれる力がなくその意味でも猥せつ感はもちようがないと思いました」との各記載がある。
右に引用した記載は、被告人ら両名において、右作品がわいせつ文書に当るか否かについての法律の錯誤をきたしていたとする趣旨のものであるにすぎないのであり、右錯誤につき相当の理由の存するときには故意が阻却される旨の原見解に立つても、右錯誤の理由が右のとおりのものである以上は、これをもつて右にいう相当の理由に当るとすることはできず、他に被告人両名が右作品をわいせつでないと信じたことについて相当の理由があると認めるに足りる証拠も存しないこと原判示のとおりである。
従つて、被告人両名につき刑法一七五条の故意の存在を認定した原判断は結局相当であり、この点の論旨も理由がない。
六よつて、刑訴法三九六条により本件各控訴を棄却することとし、当審における訴訟費用は、同法一八一条一項本文、一八二条により被告人両名に連帯して負担させることとして、主文のとおり判決する。
(木梨節夫 時國康夫 柴田孝夫)